たらこと明太子の違いは唐辛子の有無!歴史と発祥の違いも解説

たらこと明太子の違いは、唐辛子の有無です。
唐辛子が入ってなければ「たらこ」 、唐辛子が入っていれば「明太子」です。

この記事では、たらこと明太子の違いについて詳しく解説しています。

2つの違いが生まれた歴史的な背景もご紹介していますので、どうぞ最後までお読み下さい!

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たらこと明太子の違い

「たらこ」と「明太子」は、元はと言えば同じもの。
それは言葉の由来からも明らかです。

たらこと明太子は、もともと同じ

「たらこ」は「タラ(主にスケトウダラ)」の子。そして「明太子」は「明太」の子。
朝鮮語で明太(ミョンテ)はスケトウダラのことなので、どちらも同じ魚の卵巣を指していたのです。

たらこと明太子の違いは何?

たらこと明太子の違いは、味付けの加工です。
意味
たらこスケトウダラの卵巣の塩漬
明太子辛子明太子※(スケトウダラの卵巣の辛子漬け)

※全国辛子めんたいこ食品公正取引協議会の規約では、「すけとうだらの卵巣(卵を含む。)に唐辛子を原料とする調味液などで味付けしたもの」と定義されています。

この様にたらこと明太子の違いは、唐辛子の「辛味」の有無。

唐辛子なしが「たらこ」、唐辛子ありが「明太子」です。
でもコンビニのおにぎりを買う時などに、どっちが辛い方かなって迷うこと、ありませんか?
 なつこ 
両者の違いに迷ったら、言葉の頭に「辛子」をつけてみましょう。「辛子明太子」という言葉はあっても、「辛子たらこ」とは言わないですよね。


実はたらこの意味もある明太子

たらこと明太子は同じ原材料を使っていて見た目もそっくり。

でも間違えやすいのは、それだけが原因ではなかったんです。

一般的に「明太子」と言えば、唐辛子入りの「辛子明太子」のこと。

ところが地域によっては、「明太子」は「たらこ」を意味することがあります。

そのため一口に明太子と言っても、人によって指しているものに違いがあるのです。

なぜこんな違いが生まれたのでしょうか?

それには、「たらこ」と「明太子」の発祥にまつわる歴史が関係しています。

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たらこの発祥と歴史

たらこの親・スケトウダラの漁は、今から400年近く前の江戸時代始めに佐渡島で 始まりました。
これは当時の佐渡奉行が、延縄漁の技術を持った石見(今の島根県の西部)の漁師を佐渡に移住させたことによります。
やがてこのスケトウダラ漁は、佐渡から越後、東北・北海道方面へと 伝播。
獲れた魚体のうち、卵巣(たらこ)は主に塩漬けにして利用されました。
 なつこ 
北陸地方が、たらこの発祥地だったんですよ。
因みに北海道では、明治36年(1903年)に岩内町で延縄漁が本格的に開始しています。
それまで全盛期だったニシン漁の衰退もあり、徐々にスケトウダラ漁が発展。
周囲に好漁場を抱えていたことから、北海道はたらこの主要産地になっていきました。

明太子の発祥と歴史

朝鮮語ではスケトウダラを明太(ミョンテ)、その卵巣を明卵(ミョンラン)と言います。
水揚げされた明太の用途は、主にスープ用の乾物。内臓などを取り除かれ、海岸で干されていました。
卵巣は、明卵漬(ミョンランシュ)として塩や唐辛子で漬け込んで食べられることもあったものの、あくまでもメインは魚肉だったのです。
そこに目を付けた一人の日本人が、明太子を生み出したと言われています。
 なつこ 
この明太子とは、日本独自の言葉なんです。

朝鮮の記録に残っている中で最も古い唐辛子料理はキムチ。柳重臨が1766年に書いた「増補山林経済」に登場しています。その為、唐辛子を使った明卵漬もこの頃以降に誕生したと考えられます。

明太子の元祖は釜山の樋口商店

樋口伊都羽は明治5年(1872年)、戊辰戦争で破れた会津藩士の次男として東京で誕生。
ところが会津藩士への差別からその生活は困窮し、後に樋口は朝鮮に渡りました。
転機が訪れたのは、元山で明太漁業に従事した時。漁民が魚肉部分のみを使って卵を捨てているのを見て、商品化を思いついた様です。
そして明治40年(1907年)頃、樋口は釜山で樋口商店を創業しました。
樋口商店では「明太子」「明太魚子」などの商品名を用いて、唐辛子を刻んだたらこの塩漬けの製造・販売を行いました。
つまり朝鮮の食文化の影響を受けた食べ物だったのです。
明太子の製造元祖という商標も使用し、大正時代には下関経由で日本各地に明太子を販売。
他にも朝鮮半島内や中国・台湾などに販路を拡大していきました。
 なつこ 
この頃の下関は、朝鮮半島や大陸との玄関口。大正3年(1914年)には、「明太子」という名称も新聞(関門日日新聞)に登場していますよ。

戦争による打撃

樋口商店躍進の影響を受け、朝鮮では明太子を扱う業者が釜山や水揚拠点の元山に続々と増加。
北海道など各地への視察や研修で品質も向上し、日本向けの明太子は重要な商品となります。
こうして順調に伸びていった明太子産業ですが、少しずつ第二次世界大戦の影響を受けていきました。
栄養食品として軍の食事にも採用されたりしたものの、やがて原料や人手の確保が困難となり生産量が減少。
そして戦争が終わると、樋口伊都羽ら現地の日本人は、一文無しの状態で日本へ引き揚げとなったのです。

昭和になった頃、朝鮮からは下関へは辛味のない明太子も入ってきました。下関の海産物問屋などでは、朝鮮から入ってきた明太子に唐辛子などをまぶしてから日本各地に送ることがありました。これが後の下関明太子の原点の様です。

戦後すぐに明太子流通の中心だった下関

昭和20年(1945年)の終戦で明太子が入って来なくなった中、いち早く動いたのが下関の海産物問屋達でした。

彼らは北海道のたらこを仕入れて、唐辛子や塩・醤油や酒粕などの調味料をまぶして各地の市場に送っていました。

また明太子の原料としてのたらこを、下関だけでなく九州一帯の製造・販売会社に、卸していました。

戦前に関釜連絡船があった関係で、下関は日本全国の海産物が集まる大拠点でした。その為、戦後の数年間は下関の問屋を通さないとたらこが手に入りにくい状態だった様です。

現在の明太子の元祖は「ふくや」

博多名物として有名な現在の明太子の元祖は、昭和23年(1948年)に創業した博多の「ふくや」です。

朝鮮からの引揚者だった創業者の川原俊夫は、日本人が好む味付けを求めて試行錯誤を繰り返しました。

そして約10年かけて生み出したのが、昭和35年(1960年)に販売された「味の明太子」。

たらこを塩漬けし、塩を抜いてから唐辛子を含んだ調味液に漬けたものでした。

 なつこ 
刻んだ唐辛子をまぶして作られていた朝鮮や下関の明太子に対し、調味液を使うという違いがありました。

ふくやは昭和23年10月に博多中洲市場の中で食料品として創業。年末に仕入れたタラコで作った明太子を翌24年の1月10日に販売したのが、ふくやの明太子の始まりです。当初は売れなかったものの改良を重ね続けて味に違いを出し、成功につながりました。

「ふくや」の成功で広まった博多の明太子

「ふくや」が調味液に漬ける新しい方法で明太子の製造を始めると、その味が非常に評判を呼びました。
そして川原はその製造方法を周囲にも次々に教えていったので、博多近辺に明太子業者が増加。
やがて山陽新幹線の開通と共に、全国に博多の明太子が広まって行きました。
 なつこ 
川原さんがすごいのは、同じ市場のお店や仕入れ先などライバルになりそうな人にも作り方を惜しみなく教えたこと。これによって明太子が博多の名物となったのです。

たらこと明太子の混同の原因は辛子明太子

戦前に朝鮮から入ってきた明太子には、大きく分けて2種類ありました。それは唐辛子入りと、唐辛子なし(たらこ)です。

戦後になって下関や博多で唐辛子入りが作られていくと、それらは「明太子の辛子漬け」とか「辛子明太子」と呼ばれる様になりました。

そして辛子明太子の産地である西日本の一部では、辛子漬けの原料のたらこを明太子と呼ぶ様にもなりました。

逆に辛子明太子は全国に広まっていく中で、略して明太子と呼ばれる様になりました。

こうして地域や人によっては明太子の指すものに違いが生じ、たらこと混同される様になったのです。

たらこと明太子の違いをひとまとめ

たらこと明太子の違いをまとめると、この様になります。

たらこ明太子
生まれた時代江戸時代の初め明治時代の終わり
生まれた場所佐渡島釜山
意味タラの卵巣とその塩漬け①たらこの辛子漬け(辛子明太子) ②たらこ
 主要産地北海道  福岡及びその周辺地域
どちらもスケトウダラの卵巣なので一緒ですが、基本的に唐辛子で辛いのが明太子、辛くないのがたらこです。
ただし明太子の産地となっている西日本の一部では、原料のたらこを明太子と呼んだりもしますのでご注意を!
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